【南信州】小紫陽花咲く網掛山 2023/6/21 [山歩き・ウォーキング]
古代東山道を網掛峠へ向かう
【駐車地】
大平神社(頭権現)駐車場
大平神社(頭権現)駐車場
長野県下伊那郡阿智村智里2133
Googleマップ:https://goo.gl/maps/8RohM85CmkMBniyt5
Mapcode: 313 700 190*88
日本百名山・恵那山の東隣りに位置する網掛山を歩いてきました。(長野県下伊那郡阿智村地内)信州平谷・道の駅の郵便ポスト
大平神社駐車場に車を置かせてもらいました。農機が置いてあったので私有地だと思われます。背後に見えているのが網掛山の北側になります。
まずは大平神社(頭権現)に参拝。なんと!ご神体が頭蓋骨という神社、謂われは次の様なものです。
天目山の戦いに敗れた武田方の武者が山伏姿で神坂峠を越えようとしていました。道に迷ったため園原に近い殿島辺りで、草刈りをしていた村人の熊谷弁治という者に道をたずねました。言葉遣いをめぐって二人は言い争いになり、決闘の末山伏を討ち殺し谷間に埋めてしまいました。
後にその山伏が武田の一族であり、熊谷家の遠縁である事を知り、死を悔やみ遺体を掘り起こして氏神様として祀ったことがはじまりであるとされています。
智里村誌には“後年この地方に熱病が流行し、重患の夢枕に立った霊が”我は熊谷弁治に殺された武田の遺臣である。殺され埋められた遺体は、木の根が絡まり私の霊魂は鎮まることが出来ない。私の遺骨を神として祭れば病は治るであろうと告げた。そこで遺体を見つけ出し祭ったところ、数多くの患者が病から立ち直った”と記載されているそうです。そしてその後、この祠を大平神社と称し、熊谷家の氏神として祀ることとなったそう。
※大平神社のWEBページより抜粋 https://ohirajinja.com/
後にその山伏が武田の一族であり、熊谷家の遠縁である事を知り、死を悔やみ遺体を掘り起こして氏神様として祀ったことがはじまりであるとされています。
智里村誌には“後年この地方に熱病が流行し、重患の夢枕に立った霊が”我は熊谷弁治に殺された武田の遺臣である。殺され埋められた遺体は、木の根が絡まり私の霊魂は鎮まることが出来ない。私の遺骨を神として祭れば病は治るであろうと告げた。そこで遺体を見つけ出し祭ったところ、数多くの患者が病から立ち直った”と記載されているそうです。そしてその後、この祠を大平神社と称し、熊谷家の氏神として祀ることとなったそう。
※大平神社のWEBページより抜粋 https://ohirajinja.com/
頭蓋骨の主は信玄の甥で勝頼の従弟である武田信豊ではないかと言われています。頭蓋骨が御神体であることから『頭権現:かしらごんげん』と呼ばれ、この地域では親しみを込めて権現様と呼ばれているそうです。頭部の病気や学業に霊験があるそうで、”入学祈願受けたる者は九十八パーセントの合格率”と説明に書いてありました。額には「琴平大神・大平霊大神・富士大神」の三柱が刻まれていました。
右回りで周回の予定なので、まずは車道を南西方向へ。写真の橋を渡ってすぐの案内標識を右に入ると近道です。
ヘビイチゴ 見た目は綺麗ですが美味しくはありません。
ユキノシタ
ユウゲショウ
ソバナだと思うんですが、この時期に咲いているものなんでしょうか?もしかして園芸種?
東山道(とうさんどう)は大和朝廷が開いた官道で、政治・課役・租税などの為の道。近江・瀬田から陸奥までの約1000キロ、中でも網掛峠と神坂峠は街道一の難所だったそうです。
ハンゲショウの脇にさりげなく置かれた標識
集落内にあるもうひとつの神社にも参拝しました。
諏訪社
神社に続く階段からは南アルプスが見えました。
朝から咲いているヒルガオ
これはたぶんウバユリですね
斑の入ったマムシグサ(テンナンショウ)、詳しい種類は分かりません。
葉っぱだけなので確信はありませんが、タマアジサイではないかと思います。
トチバニンジン、実が出来ていました。
ハナイカダの実
オオバギボウシにはツボミがありました。
サワギク
扉を開けて先へ進む。
ショウマと名が付く野草は同定が難しいのですが、
3回3出複葉で葉柄の付け根が赤いですからアカショウマかな?
ウツギの花は最盛期
ウメガサソウ
キンモンガ、幼虫はリョウブの葉をたべるそうです。
凝った標識のある「網掛山登山口」
阿智セブンサミット標識
こちらは古代東山道の標識
フタリシズカ
林道(古道)は良い雰囲気です。
ヤマアジサイ
ヤブレガサ
ウマノミツバ、つぼみが付いていました。
ここから網掛峠までが急なつづら折り道です。
トリアシショウマでしょうか?
網掛峠に到着、十字路になっています。(写真右から登ってきました)
蛇瘤杉の石碑
蛇瘤杉は1953年に伐採され、大きな切り株が残っています。
この峠には網掛山の名前の元とされる伝説があり、以下のとおりです。
「近江(おうみ)の国琵琶湖畔の村の若い男女が、村人のねたみから村を追い出され、旅を重ねてこの村に来たとき、疲れと飢えのために産んだばかりの赤児とともに絶命した。村人は哀れんで三人をここに葬り、墓じるしに杉の木を植えてところ、杉の木はたちまち生長して幹が三つに分かれ数個の瘤(こぶ)をもつ大樹となった。
そのころ、琵琶湖に杉の木の影がうつり、湖が荒れて魚がとれなくなった。占ってもらうと信濃路の山深い峠で恨み死んだ三人のたたりであるといわれ、そこでこの地を尋ねて来て三人の霊を祀(まつ)ったところ、湖はもとの静けさにとりもどしたという。
若者夫婦の持ってきた網が木に掛けられていたところから網掛峠といわれるようになり、ここに祀られてあった網掛三社権現社は大正4年伏谷社(ふせやしゃ)境内に移された。」
※阿智村地域おこし協力隊WEBページより引用 http://minamishinsyu.jp/p/?page_id=89
そのころ、琵琶湖に杉の木の影がうつり、湖が荒れて魚がとれなくなった。占ってもらうと信濃路の山深い峠で恨み死んだ三人のたたりであるといわれ、そこでこの地を尋ねて来て三人の霊を祀(まつ)ったところ、湖はもとの静けさにとりもどしたという。
若者夫婦の持ってきた網が木に掛けられていたところから網掛峠といわれるようになり、ここに祀られてあった網掛三社権現社は大正4年伏谷社(ふせやしゃ)境内に移された。」
※阿智村地域おこし協力隊WEBページより引用 http://minamishinsyu.jp/p/?page_id=89
西へ下ると殿島で、東山道は恵那山の北にある神坂峠へと続いています。
峠にあった休憩舎からは、
神坂山が見えました。
自然林の明るい尾根道を山頂へ向かいます。
登山道脇に小紫陽花(コアジサイ)の花が散見される様になってきましたが、このあたりはまだ序の口でした。
特徴的なダンコウバイの葉っぱ。そういえば同属のシロモジをまったく見かけませんでした。
登って行くと、やがてコアジサイが斜面全体に群生している地点に到着。辺りは花の香りが充満していました。
主稜線に乗ったところに変わった文字の標識 ”アミカケヤマ”と刻んである様です。
網掛山の頂上です。
三等三角点「大谷:1133.19m」
7年前のガイドブックを見ると、山頂から西へ150mほど下った所に切り開きがあって恵那山が見えるとのことだったので行ってみましたが、樹木が伸びたせいなのか?見つかりませんでした。その代わりにコアジサイの群生地がありました。それにしてもすごい株数です、これだけ多いのは初めて見ました。
コナスビの花。実が茄子の形に似ているそう。
再び山頂に戻ったら、次は東へ下ります。
快適な尾根道になっていました。
東展望小屋へ向かいます。
火の用心
展望小屋に到着
記帳ノートと展望案内が置かれていました。
昼神・飯田方面に展望が開けています。
眼下に中央自動車道、遠方は霞んでいますが南アルプスの山々が眺められる。
真下に昼神温泉郷が見えました。
小屋の真ん前で咲いていたバイカツツジ。
インスタントコーヒーでマッタリ
帰りの斜面にもコアジサイがたくさん咲いていました。
コアジサイには装飾花がなく、紫色の花茎に白い花弁で上品な色合い、良い香りのする花です。園芸種のアジサイは正反対で装飾花のみになっています。
網掛峠へ向かう途中でも咲いていたウメガサソウ。
イチヤクソウも咲いていました。
写真の地点で山道は終わり林道に出ます。
この野草は?
クモキリソウでランの一種です。
扉を開けて集落内へ
ここを右へ下れば、朝参拝した頭権現へ出られます。
クサノオウ 皮膚疾患や外傷の薬になるそうですが汁に触るとカブれます。ケシの仲間らしい姿をしています。
晴れていれば眺めが良さそうですね。
ムラサキツユクサ 外来種ですが広く野生化しているようです。
ヤマボウシの花
駐車場にもどってハイク終了。網掛山は大部分が自然林で野草の種類が多く楽しめました。
ウエストン氏が絶賛したという場所
おしまいはマタタビの半夏生
(おまけ)
ハイキング後は近くの三日庵さんで、
天ぷらと
美味しいお蕎麦をいただきました。三日庵WEBページ→https://www.mikkaan.com/
平谷温泉で汗を流してから帰路につきました。
この日は道の駅で買ってきた根曲がり竹で晩酌です。
タグ:愛知県外の山
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